こんにちは、もうすっかりギターを弾いてないおじさんです。 唐突ですが、俺、子供の頃通っていた保育所がキリスト教の所だったんですよ。 朝礼で讃美歌を歌い、昼食の時には「テンニマシマスワレラノチチヨ」と祈りを捧げ、毎週金曜日には聖書を学ぶ時間がありました。 別に両親がクリスチャンだとかいう訳ではなく、預けるのに都合が良かっただけなんですけどね。 で、今はどうかというと、キリスト教は全く信仰していませんw 大人になっていく過程で色々知識が入ってきて、結果「信仰するに値しないな」と確信するに至ったので。 じゃあ仏教を信仰しているのかというと、してないですね。 これって日本では結構一般的ですよね。 一応「檀家」というシステムがあるので仏教には「所属」しているけど、頼るのは葬式や法事の時だけで、「あなたの信仰している宗教は何ですか?」と訊かれたら「無宗教です」と平気でみんな答えますよね。 仏教に所属はしてるけど、そもそも仏教の教えがどんなものかもあまり良く分かってないみたいな。 でね、最近では欧米でも日本人と同じ様に「私は無宗教です」と答える人が増えてきてるんですって。 これってちょっと前までは考えられない様な事で、驚くべき変化だと思うんですよ。 もう結構前の話になりますが、サッカーの中田英寿選手がイタリアで活躍してた頃、所属していたのがASローマというチームだった事もあってローマ法皇と謁見するという機会があって、中田選手は「自分は無宗教だけど、特別な体験だった」みたいな事を述べたんですよね。 そしたらヨーロッパのメディアはこれを「中田、無宗教だってよ」みたいに報道したんですよね。 これぐらい、欧米では「無宗教」と表明するのはヤバい事扱いだったんですよ、ちょっと前まで。 理由は大雑把に言うと2つあって、1つはキリスト教というのは「生きてるうちに正しい行いをしてないと、死んだ後の裁きで地獄に落とされちゃうぞ」という宗教なんで、無宗教だと表明するという事は「俺は死後の裁きなんて信じないから、正しい行いなんてしないぜヒャッハー」というアナーキーな人間だと言ってるも同然だという事になっちゃうから。 日本人からすると「んな事言ってねぇわw」って話なんですけどね。 で、もう1つは欧米では宗教が知識、教養というものと直結してるからです。 無宗教と表明するというのは「ボク馬鹿でぇ~す」と言ったも同然なんですね。 キリスト教を信仰している人達にとっては、聖書に間違った事は書かれてない筈なのですが、別にキリスト教徒じゃない我々からしたら聖書だって所詮人が作った物でしかない訳ですよね。 例えば、神は先ず自分の姿に似せて土からアダムを作り、アダムの肋骨からイヴを作った。 神は2人をエデンの園に住まわせ、そこに生っている禁断の果実を食べる事を禁じたのだけれど、蛇に化けた悪魔がイヴをそそのかして果実を食べさせてしまい、怒った神は2人を楽園から追放したので人間は地上で暮らす事になった、と。 誰でも知ってるお話ですよね。 でもこの時点で色々何かおかしくねっていう。 神様って人間作るのに材料が要るんだな、とか。 アダムを作った土だって神様が創造した物なんじゃないの? アダムとイヴって別に恋愛結婚じゃないんだね、とかね。 酷い言い方するとイヴってアダムにあてがわれたんだなっていう。 神の作った楽園に何で悪魔が入り込めたんだろう。 そんな事されても神様は気付かないの? 悪魔が姿を変えられるんなら、何で神様に化けなかったんだろう。 神様に化けて「やっぱりコレ食べても良いよ」って言った方があっさり騙せるじゃん。 悪魔のせいで過ちを犯しただけなのに、怒って人間の方を楽園から追放するなんてヤバくね? そもそも楽園に悪魔の侵入を許した時点で管理不行き届きじゃん。 とまあ、突っ込み所満載なんだけど、これらも全部「間違った事は書かれてない」という扱いでなければならないんですよね、キリスト教を信仰するという事は。 こういう突っ込み所に対して、「これはこういう風に解釈できる」と聖書の内容を把握して、きちんと自分なりの答えを持っているというのが欧米の人達にとっての知識、教養というものなんですよ。 ところがこれが最近は覆ってきているんだというんです。 以前は日曜日になれば家族で教会に赴いて、聖書を読んで牧師の話を聴いて讃美歌を歌って、なんて事をやっていたのが段々日曜日はお休み、遊びに行く日になっていって、キリスト教に触れる機会が減っていったという。 言ってみれば日本人と仏教の関係と似た様な状態に欧米人もなっていってるんですよね。 欧米人にとっての生活の根幹である筈のキリスト教との関係が、こんな僅かの期間でダイナミックに変化するなんて俺には全く予想出来なかったですし、ほんの20年くらい前に中田英寿に対して「コイツ無宗教だってよ」なんて記事を書いた記者だって思ってもみなかったでしょう。 面白いですね。 世界の常識や在り方なんて、いともあっさりと変わってしまうんですね。 これまでキリスト教の名の元に行われてきた事、流された血は何だったのでしょう。 そもそも、わりと普通に滅茶苦茶な事書いてある聖書というもの、キリスト教という宗教を無理矢理解釈してまで信仰してきたんだろう。 この世界は実は、もうちょっとしたらすっかり変わってしまうのかもしれないですね。 まあ精々取り残されない様にしとかなきゃな、なんて思う反面、「知った事か」という気もしないでもないw 常識なんてものに囚われ過ぎずに、得られる情報を整理して自分なりの考えを持って、でもそれが間違ってると感じたら柔軟に対応できる様な人でありたいモンですな。 無理かなw おしまい。