これまで、ロックの本質は「自由」であるという前提で話を進めてきました。
で、「怒り」はロックの本質とは違うと言い、エルビス・プレスリーの音楽は別に怒りに満ちてないと指摘しました。
でも、このブログを読んでて違和感あった人もいたのではないでしょうか。
ロックって自由だけだろうか、と。
実は「怒り」に非常に近いモノがロックには本質的に含まれていて、それがロックの歴史に如実に現れたケースがありました。
じゃあ何で今まで「自由」だけ語ってきたかっていうと、「自由」からクイーンの話まで繋げたかったからですよはいすいませんでした。
で、その「怒り」とは似て非なるモノとは何かというと、「反骨精神」ですわな。
「怒り」ではないという例でエルビス・プレスリーの事を出した時、エルビスの腰の動きが卑猥だと話題になったと書きましたが、そういう「良い大人が眉をひそめる様な事をわざわざやって見せる」なんて事はやってるんですよね。
こういう反骨精神がウケたっていう要素は確実にあって、長いことロックって不良と結びつけてイメージされてましたよね。
これには勿論、以前書いたローリング・ストーンズ=不良、ビートルズ=優等生という構図も関わっていて、で、ビートルズはポップな曲調で人気になった後、スタジオに籠もって多様な音楽を生み出したのに対して、ローリング・ストーンズは基本的にロックンロールサウンド=不良のイメージのままずっと突き進んでいます。
なんですけど、ロックの歴史がどんどん進んでいくにつれてその音楽性は多様化していって、洗練度も演奏技術も向上していきます。そして演奏の上手い人たちがロックの世界でも持てはやされてきます。
と、ここでロックの持っていた「反骨精神」が一つの楔を歴史に刻みつけます。
1970年代半ば頃、演奏技術なんかより反体制的なメッセージをプリミティブに叩きつける事に重きを置くバンドが続々と登場します。
これが所謂パンクロックです。
ロックミュージックがおいそれと始められない程演奏が難しくなってしまったら、ロックを始めたい若い人たちは「そもそもロックってこんなんだったか?」となりますわな。こんな状態、壊してしまえと。
vol.2 へ続く